私の若手時代

第1回 清原 當博 氏 【あれから半世紀】
 1964年の第一回東京オリンピックの開催にされてから約60年が経った。
 当時は、オリンピック需要を見込んだホテル建築ラッシュで沸いていた時期である。
 私がホテルオークラに入社したのは1971年、ホテル間競争が激化され、日本の観光産業が成長してゆく初期の頃であった。
 入社して最初の辞令が「ケータリング部食堂サービス課を命ずる」であった。
 大学を出てホテルに入ると大体がフロントに配属される時代であった。
 ケータリング部?? 食堂サービス課?? 「トレーに10オンスタンブラーを乗せてホールを一周してきなさい」??? 
 なぜ「お盆に大きなコップを乗せて会場を一周してきなさい」と言えないんだ!!!
 「ステーキに塩コショウする」?? 解らない言葉ばかり。
 そもそもホテルに入ったからにはフロントに配属が一般的なのに、食堂なんて自分のやることではない。
 そんな悶々とした日々があった。
 当時の上司は橋本保雄ケータリング部長であった。
 初代BIA会長、塩月弥栄子会長と共にBIAを立ち上げたメンバーのひとりである。
 私のやる気のなさを察してしたのだろうか? 橋本部長(当時)の一言が気持ちを楽にしてくれた。
 「近い将来必ずケータリング経験したものがホテルを引っ張って行く時代が来るから、腐らずがんばれ!!!」と。
 メインダイニングルームでバスボーイとしての毎日が続いた。裏方の洗い場まで、下げ物を運ぶ専門の要員であった。
 おかげで洗い場のおばちゃんと色々な情報交換ができて役に立った。
 ケータリング部のもう一つの柱である宴会部門の現場に約3年間籍を置いた事がある。(平安の間担当の時)
 その時に学んだ事が今でも忘れられない。夜を徹して翌日の搬入をし明け方ソファーで仮眠していた時早朝出勤された橋本部長のから注意をされた。
 「スタンバイは全てOKか?休憩の時間があったらもう一度、受け書をチェックして完璧な状態で幹事さん迎えるのが宴会の仕事だぞ!」と。
 睡眠不足もあり「何で自分だけがこんな業務をやらなければならないのか?」と憂鬱になったことを憶えている。
 転機は突然やってきた。「辞令 マーケッティング部セールス課勤務を命ずる」
 入社10年目でケータリングとは逆に攻めてゆくマーケッティング部に配属された。
 国際セールス課を経て宴会予約課長として婚礼専門の部署に配属された。この時から少しずつBIAの仕事を手伝い始めた。
 当時は野田事務局長(現専務理事)を中心にBIAの基礎固めの時期であった。
 ご苦労も多かったのではと思われる。懐かしい思い出でいっぱいだ。
 BIAでは松田先輩から引き継いで人材育成委員会を長く担当してきた。国家技能検定の指定機関として6年間軌道に乗せる活動も記憶に新しい。
 今ではホテル業界に入って料飲部に最初に配属され良かったと思っている。
 BIAの多くの良き仲間と知り合えたのも貴重な財産だ。料飲部で頑張っている未来の業界を担う一人一人にエールを送りたい。

第2回 本田 敏彦 氏 【教えを乞う】
 私の仕事における概念は、経験なしで引き受けたラグビー部のマネジャー時代に培われたと思っています。
 自分の立場や生活環境が違う方々からラグビーについて教えてもらうことにより、「知らないことは素直に専門の方に聞いて教えてもらう」という意識づけができました。
 さらに、そこでの交流を通じて見聞や人脈を拡げることができました。
 明治大学の偉大な監督として知られる北島忠治さんともお話ができ、今までとは違った感動を得ることができました。
 レフェリーで有名だった真下 昇さん(後の日本ラグビーフットボール協会副会長)にも大変お世話になりました。
 東レ勤務時代には、未知の分野に飛び込む際、さまざまな方々に会いに行って、教えていただく経験をしました。
 ビジネスホテルを展開していたシャンピアホテルが新たにコミュニティホテルを作る時に、業界誌ホテレスの春口 和彦さん(当時編集長)を面識なしに訪ねて教えてもらったこと。
 ブライダルでは、日本ブライダル文化振興協会の野田 兼義さん(現BIA専務理事)のところへ飛び込んでブライダルコーディネーター養成講座を受講させていただき、多くの機会を得て今日があります。
 ホテルの運営面においては、当時のコミュニティホテルを20数か所泊まり歩いて支配人と面談したこと、その中でも、特に四日市都ホテルさん、(後にBIA元理事・人材育成委員長 松田 仁宏さんに誘われ人材  育成委員会のメンバーになる)いばらぎ京都ホテルさんに親切丁寧に教えてもらい勉強できたことで今の自分があると思っています。
 そのおかげで、山口の防府でのホテル買収、愛知県の知立市ではトヨタグループ7社、東レ、そして知立市でコミュニティホテルの実現に、その後、いま居る岐阜県美濃加茂のホテル経営を行う上で大いに役立ったと実感しています。本当に人との出会いは素晴らしい。
 人前式のシビルウエディングミニスターになって三百組近い人の門出を祝福してきました。百組目、二百組目、挙式した方を集めてみなさんの幸せ確認パーティーを開催したのもとてもいい記憶に残っています。
 この業界で働くということは、人に喜びを与えるチャンスがいくらでもあるということであり、その喜びは私達の幸せづくりの原点だと思っています。
 1組も多くのカップルを誕生させましょう。

第3回 齋藤 伸雄 氏
 私は、昭和24年8月15日生まれです。8月15日と申しますと、皆様ご存知のとおり終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)であります。
 昭和20年に終戦でありますので、その4年後に私が誕生したわけです。
 考えてみれば神社に縁があったのかなと思っておりますし、また、御祭神が私を呼んでくれたのかなという風にも解釈しておりますが、はじめから神社を一生懸命にやろうと思ったわけではないのが本音ではありました。
 当時は、正式な職員ではなく、アルバイトとして神社に奉職しました。

 ときわ会館(現在の迎賓館TOKIWA)のオープンは昭和46年3月26日であります。
 神社も事業を行って神道を教化すること、そして事業を営んで神社の財政面に寄与すること、この2つの目的の下で会館運営はスタートしました。

 当時は、造ればお客様がおいでになる、サービスやクオリティは関係ありません。
 ハードさえあればお客様がおいでになられる、という時代で、当時を振り返れば、「齋藤さん、知り合いのよしみでどうか挟めてくれないか」というような声がかかります。
 挟めてください、ですね。需要と供給がまったく違うわけであり、もう黙っていても、お客様が来る。
 お客様をお客様と思わない時代からスタートさせていただきました。

 昭和48年、私は神社での神職の道を目指して奉職を始めて4年目、会館はオープンして2年目の年であります。
 当時23歳、最年少で館長代理として、結婚式場ときわ会館への出向を命じられました。
 当時の会館の内情は、元ホテル、元互助会、元会館など、組織自体が様々な経歴を持つ職員で構成されており、いわゆる寄せ集めの集団でありました。
 そのため、同じ方向に向けない状態にある組織になっていました。
 中心として組織を動かす人物がいない。
 そこで館長代理として会館の立て直しを命じられたわけです。
 思いもよらぬ人事でありました。
 右も左もわからない私への館長代理としての任命でありましたので、「なぜ私なのだろう」と疑問に思う面もありました。
 後に考えれば、それまで奉職後、神社社務所での新しいことへの取り組みは私が中心としてやっていた。そういった実績は少なからずあったわけです。
 そういった部分を見込んでいただき、そんな私に白羽の矢が立ったのであろうと思います。
 当時の宮司からの「どうだ?」というような声掛けがあり、当時は会館の仕事にはほとんど携わっておりませんでしたので、まったく現場はわからない、という状況からの赴任・スタートでありました。
 「せっかくやるのだから」と奮起したわけでありますが、「どうせやるのであれば新潟県内でブライダル事業では一番になる」という目標を立て、歩みを始めました。

【イノベーションのスタートは目標を定め、気づくことから】
 会館の業務がはじまるわけですが、私には教えてもらう人がいない。
 例えば、披露宴の司会をすることになった。しかしながら私には経験がまったくございません。まるっきりの素人であります。どうするか。
 街の書店を訪れ、司会についての本を片っ端から購入しました。
 おそらく12冊程度だと記憶しております。購入した本を右から左へすっかり読みました。そうするとある程度は筋が理解できるわけであります。
 「司会とはこういった了見で行うのだな」それらを自分なりのマニュアルにして本番に臨みました。
 最初はお金をいただけないレベルでのスタートでございましたが、振り返ってみますれば、やがて約2,500件の司会を担当することになります。
 基本的には「気づき→考え→仮説を立てて→行動する」というフレームであります。

 当時、私が起こした行動は、ありとあらゆるセミナー、研修会に片っ端から参加して、それを実行するということでありました。
 様々な研修会へ新たな気づきを求めて訪ねていく。
 覚えてきたものはすぐに実行しました。
 「齋藤さんはどこのセミナーに行ってもいるよね」と言われることも多かった。
 「気づき→考え→仮説を立てて→行動する」というフレームワークで実践をしてきました。
 それが自社において数えきれないほどのイノベーションを起こしてきたのであります。

当時の名刺/経験ゼロで館長代理に推挙される

第4回 石塚  勉 氏 【18~25才頃まで思いを馳せて】
 今回、BIA様から「若手時代のエピソードを」という課題を頂戴しました。これまで何かと忙しかったせいか、余り若い時代を振り返る機会は少なかったように思います。
 思えば私も既に78才、良かったことも悪かったことも、すべてのことが過去の思い出となってくる年代にあります。
 東京オリンピック開催の1964年は、高校を卒業して社会人となった記念すべき年です。
 北海道の農家で7人兄弟姉妹の下から2番目に生まれた私は、家を離れどこかで働くことになるだろうと気軽に考えていたせいか、5年間バレーボールに大半の時間を割いていた一方、おぼろげながらに、内地か海外へ出てみたいという憧れを抱いていました。
 そんな矢先、東京から西武鉄道人事部の人達が、求人で来校し、「東京で働く、ホテルで働く、海外へのチャンスもある」などのお話を聞き、興味本位でしたが、東京での会社見学会に参加して受験、入社することになりました。
 1964年4月、西武鉄道ホテル事業部/東京プリンスホテルに配属。開業の10月まで、三康文化研究所で3か月間座学、ホテルで2か月間実習、その後、開業のため客室備品の搬入作業、宿泊部ルームサービス配属となりました。
 客室数500、客室稼働率ほぼ100%、お客様の95%は外国人、オーダーテイク/接客は英語、仕事の後はラジオ番組「百万人の英語」を聞きながらの都会生活等々で、完全にカルチャーショックを受け、車で往来するお客様を見ては、自分もいつかは車でホテルに出入りできるようになりたいと夢見ていました。
 このショックが、多くを学んで社会に適応するようにしなければという思いに至り、進学することにしました。
 しかし、学費生活費をどうするか、大学受験に受かるかどうか、課題がありました。費用面は、バイトもするということでなんとか親を口説きましたが、高校時代まで教科書以外、「平凡、明星」などの雑誌、「赤胴鈴之助、いがぐりくん」などの漫画しか読んだことがなく、進学は眼中にありませんでした。
 ただ中2の時、英検2級に合格したこともあり、英語の成績はまずまず、これを手掛かりに、まずは生活費の安い大阪で、入学し易い短大へ入学し、編入試験で大学へ進みました。
 貿易関係の仕事を希望し、小さな大阪の機械メーカーに就職しましたが、配属が広報企画課で、展示会等へ出展や販促活動、貿易課ではありませんでした。
 東京晴海への出展で東京への出張もあり、プリンス時代の同僚と交流時、プリンスホテルがホテル学校を作ることを耳にしました。
 東京へ戻りたいこともあって、新規事業は面白いのでやらせて欲しいと人事に頼み込んで、かれこれ6年の歳月を経て再入社、当時25才、本社のホテル学校開校準備室で働くことになりました。
 1971年は、株式会社プリンスホテルの発足年でした。全国的に、各社各様にホテルの開発計画のある中で、同社が人材確保、人材育成のため、約2億円の資金を投じ、赤坂プリンスホテルの敷地内に、記念事業の一つとしてプリンスホテルスクールを立ち上げ、1972年に開校しました。
 1976年運輸省管轄下で財団法人を設立、学校経営を継承して日本ホテルスクールへ改名、1985年東京都の認可を経て専修学校へ、2009年東京都認可の学校法人を設立、学校法人立の専門学校日本ホテルスクールへと変身してきました。
 1985年には学生数も1000名規模となり、単科校では、日本一の規模になり、いくつかの試行錯誤、紆余曲折を経ながらも、設立から53年を経過しました。
 大変嬉しいことに、2018年英国のライフスタイル誌「モノクル」は、スイスのローザンヌホテル学校、イタリアのブルネックホテル学校、アメリカのコーネル大学ホテル経営学部と並び、世界の4大ホテル学校の一つとして紹介してくれました。
 現在、ホテル観光系の専門学校では最多の卒業生14,626名が内外で活躍しております。
 「若手時代のエピソード」ということで、18才~25才を中心に書いてきましたが、それ以降、ホテルスクール、政府、他の企業/団体との関係で、42か国、134回の海外渡航という貴重な体験をすることができました。
 人それぞれに人生観があろうかと思いますが、私の場合、「努力、縁、運」が左右してきたように思われます。
 自分の仕事への努力、縁=周りの人達との助け助けられの人間関係、運=その時々の状況がついているかどうか、これらが絡み合った時に、良い結果が生まれてきました。
 今にして思えば、結果論ですが、5年間バレーで鍛えた体で持病もなく、18~25才ころ抱いた海外への憧れの気持ちが根底にあって、50年以上諦めずに前向きに動いてきた結果が、今に結びついているように思われます。

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