私の若手時代

第1回 清原 當博 氏 【あれから半世紀】
 1964年の第一回東京オリンピックの開催にされてから約60年が経った。
 当時は、オリンピック需要を見込んだホテル建築ラッシュで沸いていた時期である。
 私がホテルオークラに入社したのは1971年、ホテル間競争が激化され、日本の観光産業が成長してゆく初期の頃であった。
 入社して最初の辞令が「ケータリング部食堂サービス課を命ずる」であった。
 大学を出てホテルに入ると大体がフロントに配属される時代であった。
 ケータリング部?? 食堂サービス課?? 「トレーに10オンスタンブラーを乗せてホールを一周してきなさい」??? 
 なぜ「お盆に大きなコップを乗せて会場を一周してきなさい」と言えないんだ!!!
 「ステーキに塩コショウする」?? 解らない言葉ばかり。
 そもそもホテルに入ったからにはフロントに配属が一般的なのに、食堂なんて自分のやることではない。
 そんな悶々とした日々があった。
 当時の上司は橋本保雄ケータリング部長であった。
 初代BIA会長、塩月弥栄子会長と共にBIAを立ち上げたメンバーのひとりである。
 私のやる気のなさを察してしたのだろうか? 橋本部長(当時)の一言が気持ちを楽にしてくれた。
 「近い将来必ずケータリング経験したものがホテルを引っ張って行く時代が来るから、腐らずがんばれ!!!」と。
 メインダイニングルームでバスボーイとしての毎日が続いた。裏方の洗い場まで、下げ物を運ぶ専門の要員であった。
 おかげで洗い場のおばちゃんと色々な情報交換ができて役に立った。
 ケータリング部のもう一つの柱である宴会部門の現場に約3年間籍を置いた事がある。(平安の間担当の時)
 その時に学んだ事が今でも忘れられない。夜を徹して翌日の搬入をし明け方ソファーで仮眠していた時早朝出勤された橋本部長のから注意をされた。
 「スタンバイは全てOKか?休憩の時間があったらもう一度、受け書をチェックして完璧な状態で幹事さん迎えるのが宴会の仕事だぞ!」と。
 睡眠不足もあり「何で自分だけがこんな業務をやらなければならないのか?」と憂鬱になったことを憶えている。
 転機は突然やってきた。「辞令 マーケッティング部セールス課勤務を命ずる」
 入社10年目でケータリングとは逆に攻めてゆくマーケッティング部に配属された。
 国際セールス課を経て宴会予約課長として婚礼専門の部署に配属された。この時から少しずつBIAの仕事を手伝い始めた。
 当時は野田事務局長(現専務理事)を中心にBIAの基礎固めの時期であった。
 ご苦労も多かったのではと思われる。懐かしい思い出でいっぱいだ。
 BIAでは松田先輩から引き継いで人材育成委員会を長く担当してきた。国家技能検定の指定機関として6年間軌道に乗せる活動も記憶に新しい。
 今ではホテル業界に入って料飲部に最初に配属され良かったと思っている。
 BIAの多くの良き仲間と知り合えたのも貴重な財産だ。料飲部で頑張っている未来の業界を担う一人一人にエールを送りたい。

第2回 本田 敏彦 氏 【教えを乞う】
 私の仕事における概念は、経験なしで引き受けたラグビー部のマネジャー時代に培われたと思っています。
 自分の立場や生活環境が違う方々からラグビーについて教えてもらうことにより、「知らないことは素直に専門の方に聞いて教えてもらう」という意識づけができました。
 さらに、そこでの交流を通じて見聞や人脈を拡げることができました。
 明治大学の偉大な監督として知られる北島忠治さんともお話ができ、今までとは違った感動を得ることができました。
 レフェリーで有名だった真下 昇さん(後の日本ラグビーフットボール協会副会長)にも大変お世話になりました。
 東レ勤務時代には、未知の分野に飛び込む際、さまざまな方々に会いに行って、教えていただく経験をしました。
 ビジネスホテルを展開していたシャンピアホテルが新たにコミュニティホテルを作る時に、業界誌ホテレスの春口 和彦さん(当時編集長)を面識なしに訪ねて教えてもらったこと。
 ブライダルでは、日本ブライダル文化振興協会の野田 兼義さん(現BIA専務理事)のところへ飛び込んでブライダルコーディネーター養成講座を受講させていただき、多くの機会を得て今日があります。
 ホテルの運営面においては、当時のコミュニティホテルを20数か所泊まり歩いて支配人と面談したこと、その中でも、特に四日市都ホテルさん、(後にBIA元理事・人材育成委員長 松田 仁宏さんに誘われ人材  育成委員会のメンバーになる)いばらぎ京都ホテルさんに親切丁寧に教えてもらい勉強できたことで今の自分があると思っています。
 そのおかげで、山口の防府でのホテル買収、愛知県の知立市ではトヨタグループ7社、東レ、そして知立市でコミュニティホテルの実現に、その後、いま居る岐阜県美濃加茂のホテル経営を行う上で大いに役立ったと実感しています。本当に人との出会いは素晴らしい。
 人前式のシビルウエディングミニスターになって三百組近い人の門出を祝福してきました。百組目、二百組目、挙式した方を集めてみなさんの幸せ確認パーティーを開催したのもとてもいい記憶に残っています。
 この業界で働くということは、人に喜びを与えるチャンスがいくらでもあるということであり、その喜びは私達の幸せづくりの原点だと思っています。
 1組も多くのカップルを誕生させましょう。

第3回 齋藤 伸雄 氏
 私は、昭和24年8月15日生まれです。8月15日と申しますと、皆様ご存知のとおり終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)であります。
 昭和20年に終戦でありますので、その4年後に私が誕生したわけです。
 考えてみれば神社に縁があったのかなと思っておりますし、また、御祭神が私を呼んでくれたのかなという風にも解釈しておりますが、はじめから神社を一生懸命にやろうと思ったわけではないのが本音ではありました。
 当時は、正式な職員ではなく、アルバイトとして神社に奉職しました。

 ときわ会館(現在の迎賓館TOKIWA)のオープンは昭和46年3月26日であります。
 神社も事業を行って神道を教化すること、そして事業を営んで神社の財政面に寄与すること、この2つの目的の下で会館運営はスタートしました。

 当時は、造ればお客様がおいでになる、サービスやクオリティは関係ありません。
 ハードさえあればお客様がおいでになられる、という時代で、当時を振り返れば、「齋藤さん、知り合いのよしみでどうか挟めてくれないか」というような声がかかります。
 挟めてください、ですね。需要と供給がまったく違うわけであり、もう黙っていても、お客様が来る。
 お客様をお客様と思わない時代からスタートさせていただきました。

 昭和48年、私は神社での神職の道を目指して奉職を始めて4年目、会館はオープンして2年目の年であります。
 当時23歳、最年少で館長代理として、結婚式場ときわ会館への出向を命じられました。
 当時の会館の内情は、元ホテル、元互助会、元会館など、組織自体が様々な経歴を持つ職員で構成されており、いわゆる寄せ集めの集団でありました。
 そのため、同じ方向に向けない状態にある組織になっていました。
 中心として組織を動かす人物がいない。
 そこで館長代理として会館の立て直しを命じられたわけです。
 思いもよらぬ人事でありました。
 右も左もわからない私への館長代理としての任命でありましたので、「なぜ私なのだろう」と疑問に思う面もありました。
 後に考えれば、それまで奉職後、神社社務所での新しいことへの取り組みは私が中心としてやっていた。そういった実績は少なからずあったわけです。
 そういった部分を見込んでいただき、そんな私に白羽の矢が立ったのであろうと思います。
 当時の宮司からの「どうだ?」というような声掛けがあり、当時は会館の仕事にはほとんど携わっておりませんでしたので、まったく現場はわからない、という状況からの赴任・スタートでありました。
 「せっかくやるのだから」と奮起したわけでありますが、「どうせやるのであれば新潟県内でブライダル事業では一番になる」という目標を立て、歩みを始めました。

【イノベーションのスタートは目標を定め、気づくことから】
 会館の業務がはじまるわけですが、私には教えてもらう人がいない。
 例えば、披露宴の司会をすることになった。しかしながら私には経験がまったくございません。まるっきりの素人であります。どうするか。
 街の書店を訪れ、司会についての本を片っ端から購入しました。
 おそらく12冊程度だと記憶しております。購入した本を右から左へすっかり読みました。そうするとある程度は筋が理解できるわけであります。
 「司会とはこういった了見で行うのだな」それらを自分なりのマニュアルにして本番に臨みました。
 最初はお金をいただけないレベルでのスタートでございましたが、振り返ってみますれば、やがて約2,500件の司会を担当することになります。
 基本的には「気づき→考え→仮説を立てて→行動する」というフレームであります。

 当時、私が起こした行動は、ありとあらゆるセミナー、研修会に片っ端から参加して、それを実行するということでありました。
 様々な研修会へ新たな気づきを求めて訪ねていく。
 覚えてきたものはすぐに実行しました。
 「齋藤さんはどこのセミナーに行ってもいるよね」と言われることも多かった。
 「気づき→考え→仮説を立てて→行動する」というフレームワークで実践をしてきました。
 それが自社において数えきれないほどのイノベーションを起こしてきたのであります。

当時の名刺/経験ゼロで館長代理に推挙される

第4回 石塚  勉 氏 【18~25才頃まで思いを馳せて】
 今回、BIA様から「若手時代のエピソードを」という課題を頂戴しました。これまで何かと忙しかったせいか、余り若い時代を振り返る機会は少なかったように思います。
 思えば私も既に78才、良かったことも悪かったことも、すべてのことが過去の思い出となってくる年代にあります。
 東京オリンピック開催の1964年は、高校を卒業して社会人となった記念すべき年です。
 北海道の農家で7人兄弟姉妹の下から2番目に生まれた私は、家を離れどこかで働くことになるだろうと気軽に考えていたせいか、5年間バレーボールに大半の時間を割いていた一方、おぼろげながらに、内地か海外へ出てみたいという憧れを抱いていました。
 そんな矢先、東京から西武鉄道人事部の人達が、求人で来校し、「東京で働く、ホテルで働く、海外へのチャンスもある」などのお話を聞き、興味本位でしたが、東京での会社見学会に参加して受験、入社することになりました。
 1964年4月、西武鉄道ホテル事業部/東京プリンスホテルに配属。開業の10月まで、三康文化研究所で3か月間座学、ホテルで2か月間実習、その後、開業のため客室備品の搬入作業、宿泊部ルームサービス配属となりました。
 客室数500、客室稼働率ほぼ100%、お客様の95%は外国人、オーダーテイク/接客は英語、仕事の後はラジオ番組「百万人の英語」を聞きながらの都会生活等々で、完全にカルチャーショックを受け、車で往来するお客様を見ては、自分もいつかは車でホテルに出入りできるようになりたいと夢見ていました。
 このショックが、多くを学んで社会に適応するようにしなければという思いに至り、進学することにしました。
 しかし、学費生活費をどうするか、大学受験に受かるかどうか、課題がありました。費用面は、バイトもするということでなんとか親を口説きましたが、高校時代まで教科書以外、「平凡、明星」などの雑誌、「赤胴鈴之助、いがぐりくん」などの漫画しか読んだことがなく、進学は眼中にありませんでした。
 ただ中2の時、英検2級に合格したこともあり、英語の成績はまずまず、これを手掛かりに、まずは生活費の安い大阪で、入学し易い短大へ入学し、編入試験で大学へ進みました。
 貿易関係の仕事を希望し、小さな大阪の機械メーカーに就職しましたが、配属が広報企画課で、展示会等へ出展や販促活動、貿易課ではありませんでした。
 東京晴海への出展で東京への出張もあり、プリンス時代の同僚と交流時、プリンスホテルがホテル学校を作ることを耳にしました。
 東京へ戻りたいこともあって、新規事業は面白いのでやらせて欲しいと人事に頼み込んで、かれこれ6年の歳月を経て再入社、当時25才、本社のホテル学校開校準備室で働くことになりました。
 1971年は、株式会社プリンスホテルの発足年でした。全国的に、各社各様にホテルの開発計画のある中で、同社が人材確保、人材育成のため、約2億円の資金を投じ、赤坂プリンスホテルの敷地内に、記念事業の一つとしてプリンスホテルスクールを立ち上げ、1972年に開校しました。
 1976年運輸省管轄下で財団法人を設立、学校経営を継承して日本ホテルスクールへ改名、1985年東京都の認可を経て専修学校へ、2009年東京都認可の学校法人を設立、学校法人立の専門学校日本ホテルスクールへと変身してきました。
 1985年には学生数も1000名規模となり、単科校では、日本一の規模になり、いくつかの試行錯誤、紆余曲折を経ながらも、設立から53年を経過しました。
 大変嬉しいことに、2018年英国のライフスタイル誌「モノクル」は、スイスのローザンヌホテル学校、イタリアのブルネックホテル学校、アメリカのコーネル大学ホテル経営学部と並び、世界の4大ホテル学校の一つとして紹介してくれました。
 現在、ホテル観光系の専門学校では最多の卒業生14,626名が内外で活躍しております。
 「若手時代のエピソード」ということで、18才~25才を中心に書いてきましたが、それ以降、ホテルスクール、政府、他の企業/団体との関係で、42か国、134回の海外渡航という貴重な体験をすることができました。
 人それぞれに人生観があろうかと思いますが、私の場合、「努力、縁、運」が左右してきたように思われます。
 自分の仕事への努力、縁=周りの人達との助け助けられの人間関係、運=その時々の状況がついているかどうか、これらが絡み合った時に、良い結果が生まれてきました。
 今にして思えば、結果論ですが、5年間バレーで鍛えた体で持病もなく、18~25才ころ抱いた海外への憧れの気持ちが根底にあって、50年以上諦めずに前向きに動いてきた結果が、今に結びついているように思われます。

第5回 佐々木貴夫 氏 
 今月は、編集長自身の若手時代をご紹介させていただきます。
 私の業界人生は、1980年4月1日横浜郵便貯金会館(メルパルクYokohama)への入社からスタートし、なんと44年の長きに渡り、ブライダル業界にお世話になっております。
 郵政省(当時)が建築し、同年4月27日に開業を控える新しい施設で、山下公園に隣接した絶好のロケーションで開業前から婚礼予約が好調な人気の公共会館でした。
 最初は宿泊担当としての配属予定だったのですが、開業前で婚礼相談が忙しく、helpしているうちに、婚礼担当として開業を迎えることになった記憶があります。
 神殿、チャペルと宴会場が6会場の施設でしたが、朝9:30分挙式から18:00挙式まで1日15組の結婚式を承っており、土日はほぼ満室状態が続き、年間2442組(多分)の施行を行った年もあるなど、当時は業界でも評判の施設でありました。
 新規受注は予約解禁日を設け、4月1日には翌年4月から9月の受注を、9月には翌年10月~3月の受注を受けておりましたが、前日から徹夜で並ぶ方もあったので、混乱回避のため、解禁日朝9時に集まっていただき、200組程のカップルの相談受付順を抽選していたこともありました。当日は、1日で200組を超える成約を承るなど、今では考えられない時期でした。
 開業当初の婚礼料理といえば、和食が中心で、口取り(鯛の入った折詰)が付いており、土日の朝は、1000個近い口取りの盛付けを手伝う毎日でした。このままでは、調理場(特に和食)がパンクしてしまうため、和・洋・中の折衷料理(当時は中国料理が入るのは珍しかった)を新たに開発・積極的に販売し、数年後には、メルパルクと言えば、和洋中折衷料理と言われるまで人気料理に成長させることになりました。
 こんな忙しい時代でしたが、夜の飲みはもちろん、野球部の選手・監督として、横浜市早朝野球リーグでの早朝野球、横浜市ホテルリーグの立ち上げ、年末年始にはバスをチャーターしてスキー旅行など、アクティブな若手時代を過ごしてきました。
 約17年間を横浜で過ごし、1997年にメルパルク本社へ勤務することになりました。
 本社では、全国に15か所のメルパルクを統括し、営業企画、人材育成を行っておりました。
 丁度、BIAが設立されるタイミングだったので、入会手続きや役員の理事就任手続きをさせていただいた縁で野田専務理事に出会い、1998年のBIAブライダルコーディネーター養成講座に第1期生(8BC)として参加することになり、その後BC講座OB会長として、29BCまでの修了者や業界の皆様と交流させていただき人脈を築いてきました。
 そんなご縁もあり、BIAで業界のために働くことになった次第です。
 改めて振り返ると、多くのお客様と出会い、業界の皆様と交流を通じ多くのことを学ばせていただきました。そしてたくさんの皆様との協働、サポートがあって、今の自分があると考えております。
 私と同じような「ブライダル好き」を増殖させることがこれからの私も目標です。

第6回 長谷 晴義 氏
 BIAの佐々木さんから「私の若手時代」の寄稿依頼を受けました。
 BIAは何もわからなかった自分を、ブライダル業界の方々との関わりを通して人間関係の構築と、業界内外のしきたりなど多くの事を学ばせて頂きました。
 野田専務理事を筆頭として、元会長の塩月先生にはBIAの垣根を越えて、多くの事を教わりました。
 ブライダル業界に於いては、本中野さん、深澤さんには業界の慣習から、会社では聞けないようなこと、良き兄貴分としてメンター的な存在としてとても多くの事を学ばせて頂きました。心よりまず初めに感謝を申しあげたいと思います。
 ブライダル業界に入ったのは2002年です。日本へ帰国し家業である、八芳園へ入社をし、その年にブライダルコーディネーター養成講座を受けました。
 14BCで、同期の遠山祥子さん・香川美和さんとは、受講以来とても親しくさせて頂いています。
 養成講座を受けて、皆さんにとっては当たり前のことだと理解されていますが、何も知らなかった自分にとっては1組の結婚式をサポートするのに、こんなにも沢山の時間とパートナー企業の方との協力によって成り立っていることを知りました。
 会場は料理・衣装・装花・映像・写真・装飾多くのパートナーの方の協力で1組の結婚式が作られていることを知りました。
 ウェディングプランナーがお客様とお打合せをして、ご要望に沿って当日まで作り上げていきます。
 ウェディングプランナーのお仕事を現場で経験した時間は、大変だけどやりがいのある仕事だと思いました。
 私自身、入社して3年間は現場で黒服を経験し、多くの結婚式や宴会を肌で感じ、生産と消費が同時に行われている、やり直しのきかないビジネスの大変さを学びました。
 1組のカップルの理想の結婚式を叶えるために、NOとは言わず可能な限り実現を出来るようにサポートするために知恵を絞り多くのスタッフによって作られている事を学びました。
 この記事を読んでくれている方々は、結婚式を作るためにどこかで関わりを持たれている方々だと思います。
 日ごろ、仕事の中の忙しさで目先の事に追われてしまう事が多々あると思います。
 この記事を読んでいらっしゃる皆さんはプロ意識の高い方なので、そんな方はいないと思いますが、一つの結婚式を作り上げて、当日の新郎新婦・ご両家の方、出席されている方の楽しんでいる時間と、最後のお褒めやお礼を言われた時には何にも代えがたい達成感とやりがいを感じる瞬間です。
 大変ではありますがこんな幸せな職種・業界はないと思っています。
 産業の発展、昨今は結婚式を挙げることに価値を見出されることを感じない方もいらっしゃいます。
 少子化の影響によって取り巻く産業構造も変わってくると思いますが、結婚式の魅力をお伝えすることが私たちの使命だと思っています。
 魅力を伝えていくことが出来れば結婚式を日本で挙げたいと思う海外の方も増えてくるに違いはありません。
 そんなブライダルの魅力をBIAメンバーの横のつながり、会社で聞けない事を相談できる場所、メンバー同士の共有、様々な機会を通して、業界の発展と皆さんの活躍する場になればと思っています。
 微力ながら業界全体の盛り上げと、皆さんの仕事の活力になればうれしいです。
 最後まで読んで頂き有難うございました。

第7回 深澤 正生 氏
 1993年、時代はバブルが弾け「失われた30年」の始まりでもあった。世の中の出来事としては、Jリーグが開幕、ドーハの悲劇、ゼクシィ創刊の年でもあった。
 この年、私は浦安ブライトンホテルの宴会サービスMGRとして開業メンバーに加わった。
 世の中は景気が悪く、宴会場の稼働も芳しくなかった。
 しかし、宴会サービスチームの団結力は他部門も認めるほど強いものがあった。エリアの最小ホテルとして、パーソナルサービス、考えて動く集団になりつつあった。お客様を迎える準備は整っていた。料理長ともコミュニケーションはとれ、キッチンも腕を捲っている状態。しかし、宴席も婚礼も少ない状態が1年は続いた。185室ある客室も今では想像を絶する稼働だった記憶がある。

 ある日、社長から私と料理長に呼び出しがくる。社長から飛び出した第一声は「明日から会社に来るな。仕事がないのにお前たちが来るとコストがかかる。電気もトイレも使うだろ。だから来なくていい」と。社長の意図は何だか読めず、頭をフル回転し、料理長とも考えに考えた。
 営業が取ってこない、婚礼が受注出来ないのはサービスではなく営業や婚礼の責任じゃないかと内心思っていた自分がいることに気付かされた。他責にしている自分を客観的に見ることが出来るようになったのは、全てこのシーンがきっかけとなっている。
 今でもそうだが、「問題は我にあり」という考え方が瞬間的に身についた事を振り返って懐かしく思う。

 話を戻すと、そこから料理長と二人で空いた宴会場をどうやって稼働させるかの相談が始まる。俺たちも宴会場の稼働を受け身じゃなく能動的に考える役割と責任があるなと。
 営業が取れないならイベントで集客しようという事になり、会社に出社するために必死で考えた。そしてたどり着いたのが「お座敷ブッフェ」。高単価、高付加価値で営業展開をしていた為、地元との距離感を感じていた料理長と私で地元の方々に空いている宴会場にステージでアップダウンを付け、畳を敷き詰め、ダンスパネルで回廊を作り、近くのホームセンターで玉砂利を買い、葦簀を買って浴衣とうちわが似合う会場創りをした。植栽や照明も工夫し、浦安のどこにもない空間と料理でホテルに足を運んでもらうことを目的に、3日間イベントを開催した。
 会場が出来上がったタイミングであの社長が顔を出した。
 ニヤリとして頷いてくれた。あの日社長室に呼び出されてから1か月半はかかったものの社長の意図を超える回答だったように思う。
 この時は3日間の開催であったが、その後17年継続イベントとして、私が在籍していた最後の年度は、夏の1か月約3000名を集客するイベントとして、浦安の夏の風物詩になっていた。
 すべては社長室で発せられた衝撃の一言からの物語だった。

 おそらくこの事がきっかけとなり、翌年私は当時どん底に陥っていた婚礼部門の責任者として社長から人事異動を命じられた。婚礼部門に行ってからの話はこの比ではないくらいの濃い時間を経験させてもらった。
 それも紐解いていくと、あの社長室の出来事が原点になっていることに気付かされる。
 自分で問題意識をもって考え動くと結果も自分に返ってくる。頭をひねって知恵を持ち寄り、商品開発をして、お客様の声に耳を傾ける。そしてまた工夫する。
 そういう「正しい方向を向いた瞬間」に背後からふっと風が吹く。と今でも信じている。
 原稿を書くことで、今から30年前を振り返ることが出来たことに感謝です。

第8回 湯浅 泰敏 氏
 私は、1986年3月に大学を卒業後、現在の(株)丸三屋/ブライダリウム ミューに入社するまで、ITベンチャー企業で約5年間勤めました。
 その時の経験が、私の社会人としての基礎を作ったと感じていますので、その時代のエピソードをご紹介させていただきます。
 就活中に、若い創業社長のエネルギッシュな話を直接聞き「おもしろそうだ」と思ったのがきっかけで、社員数約数十名のその会社に就職します。配属は総務部(何でも屋)でした。
 10才年上の社長からは、直接いろいろな仕事が飛んできました。社内では「おまえが言われたんだからなんとかしろ!」といった雰囲気で、自分でなんとかするしかありませんでした。
 分からないことは、イエローページ(職業別電話帳)を開いて片っ端から電話して、相談するなんてことは頻繁にありました。
 もともとあまり物事には動じない楽観的な性格もあり、徹夜が美徳とされた超ブラックな労働環境の中でも、なんとか勤務を続けていました。
 心身共に厳しい状況もありましたが、それまで緩く生きて来た自分の中では、「人生、山もあれば谷もある、一時こんな厳しい局面があっても、きっと得るものはあるはず。」と思って頑張っていました。
 一方で、会社は時代の追い風にも乗って成長をつづけ、私が退社するまでには社員数も500名近くとなり、店頭市場に株式上場を果たします。
 社長からの無茶振りエピソードは山ほどあるのですが、一番印象に残っているのは「社員旅行」です。
 社長は、社員旅行への参加は会社に対する忠誠心を確認する機会ととらえており、部門長にも部下の参加率はリーダーシップの指標だと言ってはばかりません。
 しかも、社員旅行の目的地は、スポンサーをしていたカーレースの観戦です。カーレースは、会社のイメージアップが目的ではありましたが、多くの社員は「社長の道楽」としか見ていませんでしたので、興味のある社員はほとんど無く、社内には不満が募っていきました。
 私も温泉旅行など社員の要望を社長に伝えますが「そんなありきたりの社員旅行は意味が無い。ふざけるな。」と一喝されて終わりでした。
 さて、社長と従業員との間でのこの板挟みをどうするか?「社員旅行は楽しい!」と社員に思ってもらうために私ができることは、宴会を盛り上げるしかないという考えに行きつきました。
 ノリの良い仲間を集めプロジェクトチームをつくり、居酒屋に集合して企画を練り「カーレースに興味がなくても、宴会だけは絶対盛り上げるから、損はさせない」と社内にPRして、参加者を増やしました。
 そして当日、頑張った甲斐もあって宴会は大盛り上がり。様子を見ていた社長も大喜びでした。これで一気に社長や従業員との信頼関係も深めることができ、株式上場に向けた社内の一体感も少しは醸成できたと思います。
 余談になりますが、その後、クルーズ客船「クィーンエリザベスⅡ」で開催した、社長本人の結婚式・披露宴も私が担うことになり、これが私の人生における婚礼初仕事となりました。
 もちろん当時、婚礼の知識など全くありませんでしたが、なんとかやり抜きました。
 そのような数々の出来事から得た教訓は次の二つです。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
「結果よりも、とにかく自分の出来る精一杯のチャレンジをすることが重要」
 腰の引けた仕事をしても何も生まれません、開き直ってとことん取り組んでみると、事態は好転します。また、結果を出すことばかり気にしていると、不必要な重圧がかかりますが、「自分の出来る精一杯のチャレンジをするしかない」と目先を変えてみると、かえって良い結果が得られると思います。
 おかげさまで、その社長ご夫妻とは、今でも交流を続けさせていただいています。
 以上、私の拙い経験をご紹介しましたが、婚礼業界を支えているみなさんのご参考になれば幸いです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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