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第1回

第1回 BIAの30年を振り返る。

 婚礼事業は、教養も職業も年齢も生い立ちも、キャリアも異なる「お客様」が「新しい家庭を築き・最小社会を形成する」人生の通過儀礼の中で個人が行う最大の記念行事として、高額を投じて「これ迄お世話になった家族や友人・知人、これからの人生に於いてお世話になる方々」に対して御礼と感謝とお願いの意を込めてお披露目を行う結婚式・披露宴。そこにご列席いただく大切なお客様に企業を代表して「ご満足」頂く婚礼儀式及び披露宴を企画・提供するには、お客様の信頼を築く「人格」「人間性」に加え、婚姻に係る広範な「知識と経験」が不可欠である。
 婚礼に纏わる地域の伝統・慣習等のしきたり、結婚するご両家のこと、ご本人の学歴、お仕事や生活環境等を把握し、マナー・作法・礼法・儀礼をはじめ、地域で異なる生活文化、結納・結納品、婚礼に直接関わる衣裳・美容・花・写真・引き出物、等々の知識をフルに活かしての儀式企画、披露宴・パーティーの企画、演出企画を行うだけではなく、家庭・出産・子育て・教育・家計等、お客様からの話題に応え、信頼を築く教養を身につける必要がある。
 という責任ある立場にある「接客現場のプロフェッショナル人材」を育成するために1990年に始まった「ブライダルコーディネーター養成講座」、そこに最初から携わり今日に至ることとなった歴史を振り返り、数回に亘りお話をして行こうと思います。

 最初に、私の自己紹介から入ります。
 1939年熊本の旧家に生を得て、遠縁の哲学者「徳富蘇峰」から「兼義」という名を頂きました。
 家族は毎月1日と15日は早朝にお宮参りと墓参りをし、盆や正月は古くから守られてきた「しきたり」を守り、目上の方には礼を尽くす。
 「男は度胸」「武士に二言無し」「嘘は泥棒の始まり」と云うのが「親の口癖」でした。
 また、どんな方と接しても恥ずかしくない常識を身につけるといった「たしなみ」には厳格な両親の許で育ち、男は濟々黌でなければならないという家訓「正倫理・明大義・重廉恥・振元気・磨知識・進分明」に沿って高校に進学し、遠縁のブラジルの日本人会の会長から跡継ぎに欲しいという話を了承し、ブラジルの大農場主になるために1958年、唯一ポルトガル語の授業がある東京農業大学農業拓殖学科に進学しました。
 ところが、学科長からアメリカに留学しないかとの話が有り、即答でOK、
 1962年カリフォルニアの果樹園芸試験場兼栽培農場に留学、育苗から、栽培、機械管理、加工工場管理等最高の技術を学びました。
 ’65年に帰国すると、大学から「政府の青年海外協力隊」が始まったので試験を受けろとの指示があり、’66年タンザニア連合共和国に派遣されました。
 独立から5年目で国造りに励むTanzaniaでは、果樹蔬菜園芸技官として農林水産自然動物保護省で、園芸開発計画、育苗、技術普及、農業専門学校教師、村づくり等を同時並行で仕事に当たりました。
 官僚は英語が出来るが、一般の人はスワヒリ語です。4か月で不自由なくなりました。
 2年間の任期を満了して帰国すると、協力隊局長から、OTCA(現JICA)の専門家試験を受けろという命令。
 就職が決まっていた「住友化学」を断り、結婚して、日本国派遣専門家という立場で、外国人は私だけの国家開発委員会委員及び高等技官として再びタンザニア農業省にとして赴任、帰国までの10年間に二人の子供に恵まれました。
 日本政府にキリマンジャロ州総合開発計画の開発援助を要請し、エキスパート兼二国間コーディネーターとして任務を全うし、1976年に帰国。
 その間の話をすれば限りなく続くので割愛しますが、マラリア3回、チフス1回、その他のローカルフィーバーや自然動物との遭遇等、命に関わる数多く体験もし、言語の異なるたくさんの部族の皆さんと寝食を共にし、交流が出来ました。少し自慢をさせて頂ければ、英語は当たり前の世界で、外務省・JICAが行ったスワヒリ語検定1級の第1号に合格したことと、国際協力功労賞を頂き、平成天皇陛下・皇后陛下には7回の拝謁と、茶話会にご招待を賜ったことです。
 帰国後直ぐに建築設計会社の専務取締役に招聘され事業拡大に貢献、仕事以外の時間は「日本人に戻るために」夜学の「京都市青年政治大学」には4年間通いました。
 その他の時間は、全国の協力隊OB会の組織化、協力隊募集説明会主催、帰国専門家連絡会議の議長、アメリカンピースコープスの総会等に日本代表で4回出席し、共同プロジェクトの提案をしたこと、日本青年中国視察団コーディネーターを体験したこと、京都の青年団を集めて組織した「京都青少年活動推進会議」では、祇園祭山鉾曳ボランティアの組織化、京都市成人式の総括マネジメント、車椅子駅伝競走の誘致とマネジメントなどのボランティア活動に費やしていました。
 また、国連世界青年年では実行委員長に指名され、1年間それに没頭、大成功を収めました。
 京都府国際センター設立委員、地方公務員上級職の訓練所「全国市町村国際文化研修所講師」、京都大学大学院や関西の他大学での講師、ロータリークラブ等数々の講演、村づくり委員等々をこなしながら、国からは、国際緊急援助隊リーダー要請、国際選挙監視委員に指名されるなど、当時の平均睡眠時間は4~5時間、振り返れば何とタフな青春であったことかと思って居ます。
 これは全て妻をはじめ家族の理解があっての事でした。 
 1988年、この様な活動の一部を共にやって来た、茶道裏千家現家元の弟君「伊住政和」様からお話を頂き、裏千家・文化開発商社(株)ミリエームに取締役事業総括としてお招き頂いたことから、日本の文化を肌で感じることに目覚めました。
 ‘89年(平成元年)三井物産の異業種交流会に裏千家代表で出席し、結婚式場相談センター(株)コンパルの社長「故 大西敏之」様とご同席となり、本文冒頭のお話しを伺い、その情熱にほだされ、伊住社長と共にブライダル業界の人材育成の重要性のお話しに感銘を受け、共に「ブライダルコーディネーター養成講座」の開設に携わることになりました。
 それ以降今日迄BIAの会長はじめ理事さん達に後ろ指をささせないために、大げさですが自分では命を懸けて来たつもりです。
 次号ではJBO設立、BIA設立に至るお話をしようと思って居ます。ご笑読下さい。

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